北京(2003/02/04)
eawind
今日は朝の8時に香港女性三人組と彼女らのホテルで待ち合わせをしていたので、7時にモーニングコールで起こしてもらい、タクシーに乗ってそのホテルに向かった。タクシーでは自分が話す中国語の発音がいいねと運転手のおじさんに褒められたのでちょっと嬉しかった。彼女らのホテルに朝方向かったのは、朝食をご馳走になるためだ。なんでも、ここのホテルの朝食はバイキング形式で、部外者でもこっそり入って食べられるとのことだった。でも、お腹の調子は未だに悪く、お粥くらいしか食べられそうなものはなかった。
朝食を食べた後は、天安門の前にある毛主席記念館に行った。中に入るまで、相当時間がかかった。ディズニーランドの下手なアトラクションの行列よりそれは長い行列になっていた。正月明けで多くの人々が列をなしている。列に並ぶ間、みんなと英語で会話をしていた。しばらくして、彼女らがトイレに行くといって列から離れ、自分ひとりになった。
ひとりで待っていると、後ろから若い男二人が、後ろから自分の靴の踵を踏みつけてくる。さっきまで英語で会話していたため、英語圏に移住した中国系か何かと思われていたのだろう。あくまで推測だが、彼らにとって、故国を捨て別の国で裕福に暮らす者として自分は鼻に付く存在で、一種からかうべき対象になったのかも知れない。気にしない振りをして、列が終わるのを待っていた。いっその事、こちらから注意しようかとも思ったが、ここは自分の国ではない。下手なことをして、喧嘩沙汰にでもなったら後々厄介なことになる。また、この理不尽な状況を他人に的確に説明するほどの中国語能力は持ち合わせていなかったので、いろいろと考えるとひたすら耐えるしかなかった。列が途中二手に分かれ、彼らとは別の列に並ぶことになって、そのときほっとした。もうすでに列は入り口に近づいていた。
建物の中に入ると、毛沢東の遺体が冷凍状態で安置されていて、そのままの姿を目の当たりにすることができる。死後直ぐに保存されたであろう毛沢東は恰幅よく、丸々としていた。衰弱して死したようには見えない。死んで生きた姿のまま人の目に触れさせる。一種不気味でもあるが、彼を崇拝する人々にとっては神を目の当たりにするが如く、有り難味を感じるものなのだろう。中国現代史を客観的に見、人民開放と文化大革命という彼の光と影を知るひとりの外国人としてそれを冷静に見たとき、それは一種奇妙なものにも思えた。しかし、とても多くの人々が来訪していた。ほぼ多数が中国人民であると思うが、そうした中でこんなに冷静客観的な目を持ってここを訪れたことに、一種の引け目を感じた。周りの人に「異教徒」日本人ということを悟られることを恐れる緊張感を持ちながら。
その後、紅橋市場というところに行った。ここにビル丸ごとがコピー商品の販売店になっている。多くの外国人観光客が訪れるが、コピー商品と言えども、かなり高い値段で買っていくらしく繁盛していると、香港女性三人組の一人アリスさんがそう言っていた。彼女らは綺麗な切り絵を買った。その後、バスに乗って北京動物園に行った。バスに乗ると運転手と乗客が口喧嘩をしている。なんで喧嘩しているのかはわからないが、北京ではよく口喧嘩を目にする。銀行の中や道端、公衆電話、いたるところで喧嘩している。お店の張り紙に「店の前、喧嘩禁止」などという日本では決して見ることのない張り紙を目にする。そういえば、かつての日本でも「火事と喧嘩は江戸の華」などと言われたことを思い出した。火事は目撃することはなかったが、北京では日常的に喧嘩を目にすることができる。
動物園ではいろいろな動物を見ることができたが、パンダを見れたことがうれしい。小さいころ祖母に連れられて、上野動物園にパンダを見に行った。日中友好の証として、中国から贈られたパンダ。当時は国際情勢などよくわからないながら、ぬいぐるみみたいにかわいいパンダを見て素直に喜び、中国に憧れた記憶がある。動物園を回る間、胃の痛みに悩まされながらも、何とか一通り巡る事ができた。
その後、バスにまた乗って、北京駅まで行き、近くの台湾料理屋に入って、夕食をとった後、彼女らと別れて地下鉄に乗って前門まで帰った。
部屋に帰ってのどが乾いたので外に買い物に出ようとすると、ホテルのマネージャに呼び止められた。何かと思って話を聞いてみるが、何を言っているのか聞き取れない。自分はこれから飲み物を買いに行くと言ったが、ついて来いという。そうすると、ホテルの隣に雑貨屋があって、これが水だ、これがコーラだと、丁寧に教えてくれる。おまけに、タバコまで勧めてくる。自分は旅に出ることをきっかけに、タバコを止めていて、自分はタバコを吸わないといっても、強く勧めるので断りきれず吸ってしまった。しかもすごいのが、その雑貨屋の中で吸うのである。中国と日本で違いを感じるのはこうしたマナーというのが中国では緩く、日本は結構厳しいということである。まあ、ある意味マナーがないので街を歩いていると、ムッとしてしまうことがしばしばである。たとえば地下鉄を降りるとき、日本では降りる人が先、乗る人は後、のような暗黙の了解があるが、ここ北京ではそんなことはなく乗る人と降りる人が押し合いへし合いとなる。また、道路を歩いていてびっくりするのは圧倒的に日本より信号機が少ないので、車も自転車も人も、どんどん突っ込んでくる。相手に注意を引かせるためにクラクションを鳴らすのはしばしば。
飲み物を買って部屋に戻るとホテルのマネージャがもう休み時間なので、少し話しをしていいかと聞く。まだ、おなかの調子はよくないが、折角の機会なので話をすることにした。彼は陝西省のダムで有名な三門峡付近の出身で、中学を卒業してからしばらく日系企業の工場に勤めたあと、ホテルマンをするようになったという。明々後日に正月休みで実家に帰るのだが一緒にどうだと勧められたが、あいにく明日の夜に日本で中国語を教えてくれた先生の彼女が住む大連に向けて出発する予定だったので、ここはお断りすることにした。でも興味深かったのは、彼の家は竈洞(ヤオドン)といって地下に掘った珍しい家なのだという。また、度々出てきた話題が、日中戦争や、靖国神社参拝問題など。彼の親戚のおじさんは戦争当時日本軍によって射殺されたとも話していた。自分としては誠意をもって謝るしかなく、まったく小泉首相は何をやっているのだといぶかしく思ったものである。
しかし、この記事を書いている今の自分にとっては英霊のために靖国を参拝する一国の首相の考えも理解できなくはない。戦死することはなかったが、海軍軍人として自分の祖父もかつての太平洋戦争でアメリカを相手に戦った。戦後、国を憂う犠牲になった方々の思いを元に高度経済成長を支え、自分が高校生の時に肺がんで息絶えた。そして、そうした歴史の上に積み上げられた現代に生きる日本人の一人として靖国に祀られる英霊に敬いの意を表する気持ちは芽生えてきている。こうした気持ちが侵略された側の国の人々に理解されるには相当の努力が必要であろう。
中国の人々は半世紀ちょっと前の日本の行為に対しては厳しい見方をするが、基本的に現在の日本のことが大好きである。街に出れば、日本の家電製品や自動車の看板をよく目にするし、浜崎あゆみは若い人に人気で、大体の人が知っている。また、彼はどこで覚えたのか「幸せなら手をたたこう♪」を知っていて、二人で一緒にこの歌を歌いながら、そしてやめたはずのタバコを何本か吸いながら、北京の夜は更けていった。