ビシュケク⇒アルマティ(2003/03/21)
eawind
この部屋はよく間違い電話が掛かって来る。部屋番号が25なのだが、ビシュケク市内の電話番号が25で始まるので、外線番号を押さずに25をプッシュするとこの部屋にかかってくるのだと思う。それに水まわりも壊れ気味で、カザフスタンの宿にあった湯沸かし機も部屋にはない。それに料金が割に高いので、今日一日でチェックアウトして、宿を代えることにした。
まずは現地通貨が残り少なくなっていたので、中央のバザールに行って持っていたカザフスタンテンゲを全部キルギスタンソムに両替する。これだけでは一日二日しか持ち堪えられない金額だったので、アメリカドルも少し両替しようとするが、何故か両替を受け付けてくれない。
昨日出会った大学教授のおばさんが教えてくれたのだが、今日はキルギスの祝日で、しかも明日あさっては土日である。香港のシティバンクでつくったトラベラーズチェックも持っていたし、三菱銀行のインターナショナルカードも持っていて銀行に行けば現地通貨を取得できる準備はしているが、銀行も営業しているかどうかもわからない。
その後、アルマティの宿で出会ったキルギス在住の日本人から電話番号を教えてもらったので、電話してみるが、風邪をひいて今日は会うことができないという。おまけに、代えようと思っていた別の宿に電話するが、あいにく留守で繋がらない。
「俺はキルギスに嫌われているのか」と途方にくれる。翌日イシュク・クル湖に行こうと予定していたが、現地通貨が乏しいのでかなり不安である。このまま、カザフスタンに引き返そうと思い、ひとまずバス停に行ってみた。カザフでのタクシー事件もあって、この頃はタクシー恐怖症になっていたし、バスもイマイチ乗り方を会得していなかったので、徒歩で移動する。それにしても今日は暑い。もう春もすぐそこまで近づいている。そして高地の直射日光を浴びる。着ているものは北京以来の耐寒装備で、歩くと汗が滴り落ちてくる。おそらく1時間くらい掛かっただろうか、バス停へようやく到着。ひとまず、昼食を取ってから出発しようと思い、近くのカフェに入る。そこでチャイとマンティを三個いただく。このカフェの建物はぼろぼろで天井から塗料の粉がぱらぱら降ってくる。そこらじゅう粉だらけになるので急いで食べ終え、バスに乗り込む。料金は155ソム。来たときは500テンゲで、ソムをテンゲに替えるとレートがちょうど三倍になるから、少しソムで支払ったほうがお得になる。バスは私営バスで、定員が一杯になり次第出発する仕組みだ。
数十分待っていると最後の乗客が乗ってくる。ちょうど自分の隣の席が最後に残っていたのだが、とても太ったおねえちゃんが大きなごみ袋に詰め込んだ荷物を三つもさげて乗ってくる。かなりウンザリである。ただでさえ窮屈な座席だが、このおねえちゃんのせいで足の置き場が半減し、先が思いやられる。
まもなくバスは出発し、国境の検問所に到着する。この帰りのキルギス側の検問所がひどく、四年前から日本人はビザが不要になっているにもかかわらず、「どうしてビザがないんだ。」「おかしいじゃないか。」といって賄賂を要求してくる。噂で聞いていた通りの展開だ。しばらくして、英語を話せる乗客が間に入ってくれて、その人のおかげでなんとかパスすることができた。後で、乗っていたウズベキスタン人がパスポートに200ソム挟んであるのを見せて、これをやれば難無く検問を通過できるのだよと教えてくれるが、とんでもないことである。こんな人が大勢いるから、いつまでたっても賄賂の応酬が終わらないのだと思った。まあ、毅然とした態度を取っていれば、そんなもの払わずとも済むのである。カザフ側のパスポートコントロールは行きと同様に少々時間を要したが、問題なくダブルエントリーのカザフビザを持っていたので、スタンプを押してもらい通過する。
バスは程なく峠道に入る。このバスはメルセデスベンツ製のミニバスで結構性能と乗り心地はよいのだが、かなり飛ばす。20人くらい乗ったバスが峠のカーブでリアを滑らせる。なかなか冷や汗ものだが、事故なくカザフの荒野の一本道に出ることができた。しかし、座席は狭く、お尻はどんどん痛くなる。
我慢すること4時間でビシュケクからアルマティに帰着する。また、本日も一昨日まで泊まっていたゼルデに引き返し、寝床を確保する。チェックインを終えると、近くのカフェに行って、今日は少し豪華な食事を取る。ロクな一日ではなかったので、一日の最後くらい良い思いをしたかった。スープと肉と紅茶とミネラルウォータを注文し、腹いっぱいに全てをたいらげる。
食後、宿に戻ってシャワーを浴びる。部屋に戻ってしばらくすると、同居人が入ってくる。今日からはスイス人のパトリックが同居人だ。彼はかなり気合の入ったバックパッカーで去年の9月から中国に入っていて、昨日アルマティに到着したと言う。歳は33歳で、離婚暦一回、もちろん仕事は退職してきたと言う。なんでも医療機器関連の企業に勤めていたそうだ。英語とフランス語と少しのドイツ語をしゃべると言う。宿のおばあちゃんは彼をアメリカ人と言っていたが、ここでは英語を話す白人はすべてアメリカ人になってしまうのだろうか。やはり僕と同じく中国からヨーロッパまでの旅程だそうだ。日本にも4回ほど仕事の関係で行ったことがあるそうで、何でも畳のある旅館と温泉が大好きだと言う。登山もよくするそうで、日本百名山のうち20ちょっとは登ったという。1時間ほどいろいろ旅情報を交換し合って、就寝する。